全く文学的でない感情の整理


 最近、塾の終わりに蔦屋に行って、あーでもないこうでもないと本について話した後に深夜2時までやってるファミレスによってたくさん食べて、近道を探しながら歩いて、おうちの前でキスを交えながらお話をすることが常態化している。今だけのスペシャルハッピー期間として、わたしの中で最高優先順位でこの時間を大切にしている。


 社会人になったら、毎日こんな風に一緒のペースで歩めないかもしれないけど、土日だけはしっかりと時間をとって、超絶日常的で人間的で、欲もしっかりと満たしつつ、愛情深い幸せを味わえるといいな。土日に彼と思う存分一緒に居られるなら、社会人もなんとかやっていけるんじゃないか?と少しだけ前向きになれている気がする。それくらいこの時間は大切にしたい。


 あれ、今思ったけど、金曜日彼の仕事が終わるのを待って、蔦屋コースを堪能し、家の前でチューをしながら明日の予定を考えて解散し、土日はラブホテルコースで、ってすごい理想的じゃない?そこまで彼の時間を奪っていいのかわからないからたまにでいいけど、地味に蔦屋デートすごく好きで手放したくない。女として、地元すぎるデートや、ラブホテルに行くというデートを積極的に好むなんて果たしていいのかよくわかんないなと思ってはいるが激推ししてしまう。


 そもそも、蔦屋って小さい頃から大好きだ。母は東京に出てしまったという自責の念から常に一年に3度は帰省していて、わたしの長期休暇は佐渡に消えてしまっていたが、そこにある娯楽はどでかい蔦屋だった。周りには田んぼと日本海と空き家だけで、いつも楽しそうに生きる母のくせして実家ではとても肩身が狭そうで、佐渡はそこまでわたしにとって楽しい場所ではなかった。だから幼いながらに、率先して田植えをやって見せたり、その頃は美味しさがあまりわからなかったおばあちゃんお手製のお煮しめを頬張って見せたり、母の疲れた顔を察知しては肩を揉んであげたりした。でも実は、無意識に家族旅行をしているクラスの子達を羨ましく思っていたと思うし、母も父もゆっくりできる場所に行けたら幸せなのに、と思っていた。そんな中で、たくさんの本、たくさんの映画、たまにあるセンスのいい雑貨が集結してるあの場所は十分にわたしをワクワクさせた。当時地元には蔦屋などなかった、と記憶していて、なんてすごいところなんだろう!ってはしゃいでいた記憶がある。だから今でも、「蔦屋」(TSUTAYAは横浜をはじめとするレンタルショップメインのイメージがあるのでそこまで惹かれない)の字を見ると心が踊る。


 ラブホテルは、先生と付き合っていた頃、手を繋ぎながらなんてもってのほかで、50メートルくらい離れて、たまに時間差で出て、不倫関係みたいに離れて歩かなくてはならなくて、それがすごく悲しくて、死ぬほど大嫌いだった。その頃は確かに先生のことが大好きで、大切だったと記憶しているが、なんでお互い未婚で好き合ってるのにこんな風にコソコソとセックスをするためだけの場所に誘導されているのか全く意味がわからなくて、自分の感情を否定された気がしていたし、単純に売春婦みたいで嫌悪感があったし、男に搾取されてるって被害妄想すらあった。今振り返れば先生はただロリコンだったと思うのだが、セックスをする女性としてと、幼くて純真無垢な少女の両立を求められている気がして、うまくバランスが取れなかった。それでも彼のことは好きだったから、彼を喜ばせるような表情ができない自分にも嫌悪感があった。


 だから、わたしはセックスにおいても受け身であり続けることはしたくなくて、求められてるからするのではなくて、わたしもしたいからする、というスタンスを崩したくない。好きだから、もっと側にいきたいから、あったかさを共有したいから、セックスをしたいと、女側だって思うし、もはや女側の方がセックスって幸せなんじゃないかな?と思う。まあ、このわたしの理想を叶えるためには相手の優しさが必要で、相手選びを間違えたら最後、どんなに女性が能動的になりたかろうともなれないから完全には平等ではないのは重々承知だけど。(過去の恋愛について悪く思いたくないし、彼らのことがあったから今のわたしが作られてると本当に思うのだけど、その点において感謝しきれないほど感謝はしてるのだけど、それにしても相手選びは間違ってたなぁと思うし、その辺はもうキラキラ粉飾をするのではなくそれを事実として認めようと、卒論を書きながら決めた。)


 だからこそ、この間まみと、ラブホテルの料金は割り勘か全額男持ちか論争を繰り広げたが、割り勘の方が結果的に女性は傷つかないんじゃないかな?ってどうしても思う。好きな人といちゃいちゃしたいという表明を出さないなんて窮屈だ。これはずっと思っているのだけど、好きだと言われる幸せと、好き放題好きだと言う幸せってどっちも大切で、もう無理無理好きすぎて好きだ!って思ってるのに女だから何もできないでいるのは、悲しい。だってこの間幸せすぎて正直びっくりした。こんなに搾取感がないセックスなんてあるのか?って世紀の発見をした気分だった。可愛い!好き!あったかい!優しい!愛おしい!ってアホな形容詞並べ立てられるような幸せだった。


 彼と一緒にいる時、わたしはなんだが腑抜けでぽわーんとしながら平和的思考になる。元がクソ嫉妬深く不安症のわたしは、すごく誠実でなにも心配要素がない彼に対しても全くもって安心しきってる、というわけではないし、いつだってもし明日振られてしまったら?という怖さは抱えている。でも、それにも増してマイナスイオンでも出てるんじゃないかこれ?と思うレベルには安心している。このことはすごい才能であって、今まで出会ってきた中で、母と、父と、まみと、まゆきと彼しかいないと思う。彼らの前でわたしは赤ちゃん返りじゃないけど、ど素直な感情を爆発させてしまう。悲しいときは悲しすぎて大泣きしてしまうし、嬉しいときは駆け引きとか可愛さとかあんまり計算しないま引き笑いをしてしまう。そうなってしまえばひたすらわたしは忠誠心というか、ずっと仲良くしてください大好きですモードが発動してしまう。いや、それ以上にできるだけ長生きしてそばにいてくださいモード、かもしれない。


 何が彼らと他の人たち違うのかわからないけど、たぶん、自分のことを根本的には見捨てないんじゃないか?っていう確信だと思う。わたしがこんな風にポエマーで、気持ち悪くて、普通では居られない時(人間誰しも普通ではないが)があることも、まあまあ受け入れてくれる自信がある。もちろん彼らに対して何をしても許されるとかそんなことは全く思っていなくて、彼らに対してはわたしは何か根本的に傷つけることができないだろうという確信がある、ほうが近いかもしれない。ずっと家族として、友人として、隣にいる人として、大事にし続けたらいいのに。


 きっとわたしのキスの顔はすごく不細工だと思う。どうしても彼がどんな表情なのか知りたくて、こっそり目を開けては安心してまた目を瞑る。何回やってもこれで正解なのか不安になるし、この時間が止まってくれたならどんなに幸せなんだろうとか空想するし、ただただ、いつか、でいいから一緒に住みたいって感情しか湧かないってワナワナしていたりする。初恋とはまたちょっと違うこの感覚が落ち着いていて、それでいて新鮮で、大切で、どこかに持ち去って逃げてしまいたい。閉じ込めて絶対に無くさないでいたい。このことをいつか罪悪感なく思い出せるように、もっと幸せな未来を一緒に歩けたらいいのになって平和ボケとしか言えないようなことをふわふわと考えている。