柚子塩ラーメン

 

 最近、好きな人とたくさんご飯を食べる機会があって、例にも漏れず、ありがたいことに、太ってしまった。好きな人のそばでご飯を食べることは、わたしにとってとびきりの特別な瞬間なので、「今日はいいか」と自分に甘々になるし、時間的幸せと味覚的幸せが一緒になって襲ってくるから、どうにも抵抗ができなくなる。


 思えば、振るときも振られるときも、この人のそばでは窮屈にしか食べられないなと思った瞬間が、わたしの恋の終わりだったような気がする。食べられない理由はそれぞれの相手ごとに違ったが、きまってたくさんのメニューから何かを選ぶときから、息苦しくなるのだ。何を選ぶのが正解か、何を選んだら1番穏便に事が済むか、意見が割れたらどのタイミングで折れるのがベストか、そんなことばかりに思考が持っていかれてしまい、自分が何を食べたいかもわからなくなってしまう。


 わたしにはあまり好き嫌いがなく、その都度「〜が食べたい」という強い意思もない。昨日だって、お好み焼き食べるつもりが、鍋の可能性も出てきて、どっちでも対応できるように黒の服を着て行ったのに、結局ラーメン屋さんに行くことに決まった。変更のたびに5秒後くらいには変更先のごはんを想像して食べたくなるし、そのラーメン屋さんには何があるのか気になってメニューを検索し、「担々麺と油淋鶏がとっても食べたい」と心に決めたはずだった。でも、柚子塩ラーメンを激推しされた瞬間に、担々麺はどっちでもよくなったし、青椒肉絲を激推しされた瞬間に油淋鶏はどっかに行ってしまった。


 自分を持った人、こだわりを持った人が、美しく、格好良く見えることは昔から知っていた。それが今日の夜ごはんという小さなこだわりでも、「わたしは絶対に今日これが食べたいんじゃ」と強く主張してくる子は格好良く見えた。そんな理想がわたしの中で凝縮されて、キャラとして表出し、一度言ったことは譲らないみたいな、頑固な自分を演じてしまう事がよくある。でも、その頑固さの裏で、実はもうどっちでもよくなっていて、どっちでもいいから決心がぶれまくる。決心がぶれまくるのは見ていて見苦しく、相手もどんどんわたしから離れて行くことがわかるし、理想の強い自分になりたかったはずがどんどん遠ざかって自分ヘイトが溜まって、ブスになる。そんな自分がいつでも嫌いで、いつでも自分が何者にもなれない要因だと思っている。


 わたしは素直に生きれば、究極に自分がないし、究極になんでもいい。だけど孤独は1番好きじゃないし、近しい人が美味しくない思いをしてることは死ぬほどいやだ。だから、わたしが大好きな人たちは、自分の意思がはっきりあったりこだわりが強い人か、こだわりはないけどなんでも美味しいと感じてしまうような鈍感で幸せそうな人、どちらかに振り切れている。わたしはそれに甘んじていて、相手に合わせて、それを美味しく食べられるように服を選んだり、味を想像したり、味覚を働かせるしかできない。理想の自分にならない方が健康的で、おそらく、おいしそうに食べられてるぶん、いくぶんかは可愛げがあると思う。


 昨日のわたしは咄嗟に、「杏仁豆腐」という言葉が出た。それも、よくよく考えた言葉ではなくて、食べたくて食べたくて仕方がなかったものではなくて、本当に咄嗟に、ぽっと出た言葉だった。けれどそれがなんだか楽しくて、心地よくて、おいしかった。わたしは勝手に、よくわからないところに感動して、ふふふ、となりがちだ。彼がたわいもないたとえ話の中で、「たとえば、おいしい…」で少し間があって、わたしはこっそり「何屋さんかな、ケーキ屋さん?お寿司屋さん?いやいやきっと、パン屋さんだな」って予想を立てた。案の定彼が「パン屋とか」って言葉を聞いたとき、すごく幸せだった。彼の口からパンとかカステラとかライチとか、かわいい言葉が出てくる瞬間が好きで、記憶にとどめたくなる。笑ったときの、かなり外側にできるえくぼがかわいい。ひとつひとつが優しくて心配になる。たとえばわたしがこんなことを思っていることを悟られてしまったら、きっとあの人はまた何かしらほんの少しでも何かを考えてしまいそうで、心がたまらない。


 こういう風に、わたしが大事な友人に対して思う気持ちとおんなじものが混じりながら好きになってしまって、こんなだったら、同性同士なら、きっとずっと仲良くできるのに。これからどうなるんだろうって不安もあるけれど、それでも幸せなのはなんでだろうか。