安堵、だけではなくて


 きのう、プレゼンの大会が終わり、ちゃんと優勝ができた。もっと凄まじく嬉しいかと思ったけどそんなことはなくて、ホッとしているというのが正しい。


 この2ヶ月間、プレゼンのチェックから始まって、実際に出ることになって、発表の練習の日々だったけど、すごい楽しかったし、終わってしまって寂しい気もする。何かにつけて発表を口実に彼に会いに行けていたし、もともと何かを完成させることは好きだったし、みるみる良くなるプレゼンに少しでも関われて嬉しい。でも同時に、もし、彼がやってきたことが、みんなが適当に聞いてて伝わらなかったらどうしようとか、彼が緊張してうまく伝えられなくてすごい後悔をしたらどうしようとか、いろんなことを考えてしまうから、優勝を意識することは極力やめて、予防線を張りまくって過ごしていたと思う。その予防線からの解放だけで随分のんびりできるし、安堵している。


もっともっと幸せになれますように。



沖縄にて


 不安のないおつきあいなんて、可能なのだろうか。今わたしは沖縄にいて、大好きな二人と幸せな3日間を過ごそうとしているのだけど、そんな非日常的な中でも、現実的な不安はずっと頭をかすめてる。その不安は今、時期尚早に付き合ったからこそくる不安なのかもしれないけど、それだけじゃないだろうとも思っている。少しの温度差や入れ違いで、どんよりとした不安はどうしたって生まれるし、そんな状態が続けば振られてしまうんじゃないかという大きな不安に取り憑かれてしまうし、私の就職とは関係ない部分、特に私の性質で大きく変わってしまったらまたは相変わらず変わらないでいたら見捨てられちゃうんじゃないかと怯えてしまう。


 

baby i see you


 確実にわたしに加藤ミリヤを与えたのはミスだった。彼にはバックサウンド的に耳触りがいいし聞きやすいと感想を話したけど、わりと真面目に聞き込んでいて、感情ベースで共感してるからつらい。今、だいぶ彼のことがちゃんと好きだし、幸せなんだけど、そもそもわたし見捨てられ不安と予期不安との戦いが人生の課題みたいなところあるから、こんなに幸せでこんなに好きになって彼が消えたら困るよって予防線を張らないではいられないみたいなモードにになってしまうことがある。


 そういうところに、あなたを諦めないとか、わたしを必要としてよとか、綺麗な耳触りのいい声で歌い上げる曲を聴いたら、ハマってしまうし、投影してしまう。


 付き合ってまだ日数は経ってないくせに、たくさんの時間を過ごしたことによって、いろんな感情になっている。大半は幸せでたまらない素敵な感情なんだけど、ちょびっとずつ汚い感情も混じっている。1つは、罪悪感に似たような、何かだと思う。本当にわたしでいいのか、捨てられちゃうんじゃないかって感情を根本的には拭えないようなわたしで本当にいいのか?みたいな疑問が溜まっていく。そんな簡単に嫌いになったりするような人じゃないことくらいわかってるはずなのに、それでも、回数は多くないにしても、今のは重たくなかったか、今のははしたなくなかったか、今のは素っ気なさすぎたかなって行動の2秒後には自己反省を繰り返してしまうわたしは、やっぱりめんどくさい人間だし、嫌にならないか。こんなことを考えてしまってごめんなさい、と思えて、やんわりと落ち込んでくる。


 表情を見ていると安心ができる。どんなに言葉を尽くしても、ラインをしても、わたしは文字になってしまうと悪い癖の深読みが発動してしまったり、冗談こそ本気で正面から受け入れてしまって、悲しくなったりする。表情はどうしたって隠し切れない部分だと思うから、だからできるだけ会いたいし、できるだけ間近で、2人きりで、まじまじと眺めていたい。重々にわかっている、そうはいっても日々において恋愛ごとは二の次であるべきで、お互いが1人でがんばって生きて、がんばって生きたご褒美としてお互いに会えば幸せだということは、本当にわかっているしわたしの理想だ。特に今回の人は不安にさせてくるような人ではないからこそ、そんな理想が叶う気がしている。4月からわたしが働くのだから普通にメリハリが大事だし、仕事をがんばりたいし、彼も大事な時だし、邪魔な存在にはなりたくないし、うざくなかったら支えたいし、甘やかしてやりたい。好きな人のそばに居続けることはとっても難しい。


 自分の過去が嫌だ。でもその過去がなければ今はないような気もする。あんなに狂い果てて、衝動的で醜く、破壊的な姿を自分では受け入れられない。けど、それがあったからこそ、あったのに、今近くにいる人たちは見捨てないでいてくれて、それが一種の安心感を与えてくれているから皮肉だ。大好きな人たちに対して、大泣きしたり、ドタキャンしたり、何もかもから手を引いたり、吐いたり、最悪なことをたくさんした。それほどわたしが狂うほどに、というとまた言葉が違うのだけど、わたしでさえ過去のなかには執着を超えた大切ななにかがあった。過去がなきゃ今がなくて、あのときのわたしはその都度その都度、確実に過去の彼らのことが大好きだったし、大切だった。同時に、当たり前にというよりもそれ以上に、彼の過去も、なければわたしと今、一緒にいないと思うし、過去の思い出のそれぞれが言葉に尽くせないほど素敵な思い出だと思うし、説明できないほどかなしい思いもしたと思う。お互いにお互いの過去が大切であることは変わらないのに、自分の過去と、相手の過去の質を比べては申し訳なくなる。ちゃんと相手を選ばないでちゃんと愛された経験がなくて、とか、過去のことをこんな風に思ってしまって、本当に情けない。彼が元彼女に薦められたDVDをちらと話した時に、今まで湧いてこなかった嫉妬をしてしまった。今まで、過去は過去と受け止めるべきだし、この人なら過去はちゃんと過去として大切にしてわたしと付き合ってくれているのだろうと信じられて、だから嫉妬なんてしなかった。自分の中にひとかけらの嫉妬心が芽生えてもすぐさま気づかないうちに消し去ることができた。なのに、眠たくて油断したのもあってか、昨日は気づいてしまった。だいぶ、元彼女が羨ましかった。彼と長く一緒に過ごした元彼女が羨ましかった。同時に、それほど好きでも別れてしまうことに気づいて、わたしが元彼女になるのって辛いよって思ってしまった。そうして次に、こんな感情を抱いてごめんねって、わたしが間違えなのはわかってるしわたしも受け止めてるんだけど、感情は持ってしまうんだよって、でもどうしても眠たいときは、生理前は、とかもっともらしい理由をつけながら、たまには思ってしまうことを、許してほしい。もちろん、要求ばかりになるのはもううんざりだから、文字打ちで発散するのだけど。ほんとうにごめんなさい。

全く文学的でない感情の整理


 最近、塾の終わりに蔦屋に行って、あーでもないこうでもないと本について話した後に深夜2時までやってるファミレスによってたくさん食べて、近道を探しながら歩いて、おうちの前でキスを交えながらお話をすることが常態化している。今だけのスペシャルハッピー期間として、わたしの中で最高優先順位でこの時間を大切にしている。


 社会人になったら、毎日こんな風に一緒のペースで歩めないかもしれないけど、土日だけはしっかりと時間をとって、超絶日常的で人間的で、欲もしっかりと満たしつつ、愛情深い幸せを味わえるといいな。土日に彼と思う存分一緒に居られるなら、社会人もなんとかやっていけるんじゃないか?と少しだけ前向きになれている気がする。それくらいこの時間は大切にしたい。


 あれ、今思ったけど、金曜日彼の仕事が終わるのを待って、蔦屋コースを堪能し、家の前でチューをしながら明日の予定を考えて解散し、土日はラブホテルコースで、ってすごい理想的じゃない?そこまで彼の時間を奪っていいのかわからないからたまにでいいけど、地味に蔦屋デートすごく好きで手放したくない。女として、地元すぎるデートや、ラブホテルに行くというデートを積極的に好むなんて果たしていいのかよくわかんないなと思ってはいるが激推ししてしまう。


 そもそも、蔦屋って小さい頃から大好きだ。母は東京に出てしまったという自責の念から常に一年に3度は帰省していて、わたしの長期休暇は佐渡に消えてしまっていたが、そこにある娯楽はどでかい蔦屋だった。周りには田んぼと日本海と空き家だけで、いつも楽しそうに生きる母のくせして実家ではとても肩身が狭そうで、佐渡はそこまでわたしにとって楽しい場所ではなかった。だから幼いながらに、率先して田植えをやって見せたり、その頃は美味しさがあまりわからなかったおばあちゃんお手製のお煮しめを頬張って見せたり、母の疲れた顔を察知しては肩を揉んであげたりした。でも実は、無意識に家族旅行をしているクラスの子達を羨ましく思っていたと思うし、母も父もゆっくりできる場所に行けたら幸せなのに、と思っていた。そんな中で、たくさんの本、たくさんの映画、たまにあるセンスのいい雑貨が集結してるあの場所は十分にわたしをワクワクさせた。当時地元には蔦屋などなかった、と記憶していて、なんてすごいところなんだろう!ってはしゃいでいた記憶がある。だから今でも、「蔦屋」(TSUTAYAは横浜をはじめとするレンタルショップメインのイメージがあるのでそこまで惹かれない)の字を見ると心が踊る。


 ラブホテルは、先生と付き合っていた頃、手を繋ぎながらなんてもってのほかで、50メートルくらい離れて、たまに時間差で出て、不倫関係みたいに離れて歩かなくてはならなくて、それがすごく悲しくて、死ぬほど大嫌いだった。その頃は確かに先生のことが大好きで、大切だったと記憶しているが、なんでお互い未婚で好き合ってるのにこんな風にコソコソとセックスをするためだけの場所に誘導されているのか全く意味がわからなくて、自分の感情を否定された気がしていたし、単純に売春婦みたいで嫌悪感があったし、男に搾取されてるって被害妄想すらあった。今振り返れば先生はただロリコンだったと思うのだが、セックスをする女性としてと、幼くて純真無垢な少女の両立を求められている気がして、うまくバランスが取れなかった。それでも彼のことは好きだったから、彼を喜ばせるような表情ができない自分にも嫌悪感があった。


 だから、わたしはセックスにおいても受け身であり続けることはしたくなくて、求められてるからするのではなくて、わたしもしたいからする、というスタンスを崩したくない。好きだから、もっと側にいきたいから、あったかさを共有したいから、セックスをしたいと、女側だって思うし、もはや女側の方がセックスって幸せなんじゃないかな?と思う。まあ、このわたしの理想を叶えるためには相手の優しさが必要で、相手選びを間違えたら最後、どんなに女性が能動的になりたかろうともなれないから完全には平等ではないのは重々承知だけど。(過去の恋愛について悪く思いたくないし、彼らのことがあったから今のわたしが作られてると本当に思うのだけど、その点において感謝しきれないほど感謝はしてるのだけど、それにしても相手選びは間違ってたなぁと思うし、その辺はもうキラキラ粉飾をするのではなくそれを事実として認めようと、卒論を書きながら決めた。)


 だからこそ、この間まみと、ラブホテルの料金は割り勘か全額男持ちか論争を繰り広げたが、割り勘の方が結果的に女性は傷つかないんじゃないかな?ってどうしても思う。好きな人といちゃいちゃしたいという表明を出さないなんて窮屈だ。これはずっと思っているのだけど、好きだと言われる幸せと、好き放題好きだと言う幸せってどっちも大切で、もう無理無理好きすぎて好きだ!って思ってるのに女だから何もできないでいるのは、悲しい。だってこの間幸せすぎて正直びっくりした。こんなに搾取感がないセックスなんてあるのか?って世紀の発見をした気分だった。可愛い!好き!あったかい!優しい!愛おしい!ってアホな形容詞並べ立てられるような幸せだった。


 彼と一緒にいる時、わたしはなんだが腑抜けでぽわーんとしながら平和的思考になる。元がクソ嫉妬深く不安症のわたしは、すごく誠実でなにも心配要素がない彼に対しても全くもって安心しきってる、というわけではないし、いつだってもし明日振られてしまったら?という怖さは抱えている。でも、それにも増してマイナスイオンでも出てるんじゃないかこれ?と思うレベルには安心している。このことはすごい才能であって、今まで出会ってきた中で、母と、父と、まみと、まゆきと彼しかいないと思う。彼らの前でわたしは赤ちゃん返りじゃないけど、ど素直な感情を爆発させてしまう。悲しいときは悲しすぎて大泣きしてしまうし、嬉しいときは駆け引きとか可愛さとかあんまり計算しないま引き笑いをしてしまう。そうなってしまえばひたすらわたしは忠誠心というか、ずっと仲良くしてください大好きですモードが発動してしまう。いや、それ以上にできるだけ長生きしてそばにいてくださいモード、かもしれない。


 何が彼らと他の人たち違うのかわからないけど、たぶん、自分のことを根本的には見捨てないんじゃないか?っていう確信だと思う。わたしがこんな風にポエマーで、気持ち悪くて、普通では居られない時(人間誰しも普通ではないが)があることも、まあまあ受け入れてくれる自信がある。もちろん彼らに対して何をしても許されるとかそんなことは全く思っていなくて、彼らに対してはわたしは何か根本的に傷つけることができないだろうという確信がある、ほうが近いかもしれない。ずっと家族として、友人として、隣にいる人として、大事にし続けたらいいのに。


 きっとわたしのキスの顔はすごく不細工だと思う。どうしても彼がどんな表情なのか知りたくて、こっそり目を開けては安心してまた目を瞑る。何回やってもこれで正解なのか不安になるし、この時間が止まってくれたならどんなに幸せなんだろうとか空想するし、ただただ、いつか、でいいから一緒に住みたいって感情しか湧かないってワナワナしていたりする。初恋とはまたちょっと違うこの感覚が落ち着いていて、それでいて新鮮で、大切で、どこかに持ち去って逃げてしまいたい。閉じ込めて絶対に無くさないでいたい。このことをいつか罪悪感なく思い出せるように、もっと幸せな未来を一緒に歩けたらいいのになって平和ボケとしか言えないようなことをふわふわと考えている。

好きと爆発ともどかしさ


 結局、2.21におつきあいを始めた。後1日ずれればにゃんにゃんにゃんだし、超覚えやすかったけど、まゆきちゃんの初恋記念日とおんなじだと聞いて、それも少しおしゃれなのかなと思った。わたしはよく記念日とか軽率に忘れてしまうので、しっかりと覚えておこう。


 ほんとうに、四年前から知ってる彼と付き合うことが不思議な感じで、不思議なのになんだかすごく自然で、うれしさしかこみあげてこない。マイナス思考でダメダメな私のくせに今はそこまで、不安とかでいっぱいになったりすることもなく、なんとなくなんとなく好きでしょうがない。彼が、気持ちいいというより心地いいよねとつぶやいた時に、首を10000回くらい振りたかった。そう、心地がいいのだ、まるでぬるま湯で、ゆったりと眠たくなるかのような、暖かさなのだ。ビートルズのイエスタデイを聞くと、自然と眠たく、心地よくなる、そんな感覚ととても似ている。


 それでも何か始まってしまうと、いつか終わるのでは?という疑問は絶えない。何かが始まったら、それが続き続けるか、終わりを告げるか、どちらかしかない。中途半端なんてことはあり得ないので、どうにもこうにも足掻きたくなる。昨日知ってしまった彼の新たな一面を、わたしだけにとどめて、大切に大切にできたら良いのに、と真顔で、真剣に、思ってしまう。


  大杉漣さんが亡くなった。父親が癌で休養中、初期のバイプレイヤーズを一気に見ていて、とても楽しかった。父親とは少し趣味が合わない同士ではあるが、共有できる部分を共有して時間を過ごすかけがえのなさのようなものを感じた気がした。だからこそ、その中のリーダー的存在である大杉漣さんの死去はわたしたち家族の中で、なんとなく、重たかった。もともと重い病気ではなく、突如としてこの世からいなくなるとは、どういうことだろうか。これこそが終りがなく、続き続けるような、そんなものなのだろうか。


 わたしには夢がある。それは、父と母が幸せになるような恋愛と結婚をすることだ。父と母に依存していると一蹴されればそれまでだが、わたしは父と母が大好きなので、大好きな人が喜んでくれるような選択が、わたしにとっての本当の喜びになってしまっていて、そこからどうにもこうにも逃れられないでいる。もちろん、そんなこと言ってないで自分の幸せを追い求めて行こうぜ、という意見もわかるし、わたしの親離れのできてなさは尋常ではないと思うが、わたしのこの感覚は必ずしも間違っていないと思っている。それは、両親の判断が、収入面とか学歴とかそういう他者から求められるような単純な基準によってなされるものではなく、「相手がわたしをしっかりと愛していて、わたしが相手を心から愛しているかどうか」という根本的な直感でされていると思えているからである。両親は、お互いを通して、また、わたしを通して愛することの大変さをいやというほど感じてきたからこそ、狂いのない直感を持ち合わせていて、その直感を通り抜けられるような相手でないと、わたしも結果的に幸せにはなれないと感じているのだ。

 

 いわれもない筋肉痛に気づいた時、あらららら?と幸せになって、それはそれでなんだか苦しい。




柚子塩ラーメン

 

 最近、好きな人とたくさんご飯を食べる機会があって、例にも漏れず、ありがたいことに、太ってしまった。好きな人のそばでご飯を食べることは、わたしにとってとびきりの特別な瞬間なので、「今日はいいか」と自分に甘々になるし、時間的幸せと味覚的幸せが一緒になって襲ってくるから、どうにも抵抗ができなくなる。


 思えば、振るときも振られるときも、この人のそばでは窮屈にしか食べられないなと思った瞬間が、わたしの恋の終わりだったような気がする。食べられない理由はそれぞれの相手ごとに違ったが、きまってたくさんのメニューから何かを選ぶときから、息苦しくなるのだ。何を選ぶのが正解か、何を選んだら1番穏便に事が済むか、意見が割れたらどのタイミングで折れるのがベストか、そんなことばかりに思考が持っていかれてしまい、自分が何を食べたいかもわからなくなってしまう。


 わたしにはあまり好き嫌いがなく、その都度「〜が食べたい」という強い意思もない。昨日だって、お好み焼き食べるつもりが、鍋の可能性も出てきて、どっちでも対応できるように黒の服を着て行ったのに、結局ラーメン屋さんに行くことに決まった。変更のたびに5秒後くらいには変更先のごはんを想像して食べたくなるし、そのラーメン屋さんには何があるのか気になってメニューを検索し、「担々麺と油淋鶏がとっても食べたい」と心に決めたはずだった。でも、柚子塩ラーメンを激推しされた瞬間に、担々麺はどっちでもよくなったし、青椒肉絲を激推しされた瞬間に油淋鶏はどっかに行ってしまった。


 自分を持った人、こだわりを持った人が、美しく、格好良く見えることは昔から知っていた。それが今日の夜ごはんという小さなこだわりでも、「わたしは絶対に今日これが食べたいんじゃ」と強く主張してくる子は格好良く見えた。そんな理想がわたしの中で凝縮されて、キャラとして表出し、一度言ったことは譲らないみたいな、頑固な自分を演じてしまう事がよくある。でも、その頑固さの裏で、実はもうどっちでもよくなっていて、どっちでもいいから決心がぶれまくる。決心がぶれまくるのは見ていて見苦しく、相手もどんどんわたしから離れて行くことがわかるし、理想の強い自分になりたかったはずがどんどん遠ざかって自分ヘイトが溜まって、ブスになる。そんな自分がいつでも嫌いで、いつでも自分が何者にもなれない要因だと思っている。


 わたしは素直に生きれば、究極に自分がないし、究極になんでもいい。だけど孤独は1番好きじゃないし、近しい人が美味しくない思いをしてることは死ぬほどいやだ。だから、わたしが大好きな人たちは、自分の意思がはっきりあったりこだわりが強い人か、こだわりはないけどなんでも美味しいと感じてしまうような鈍感で幸せそうな人、どちらかに振り切れている。わたしはそれに甘んじていて、相手に合わせて、それを美味しく食べられるように服を選んだり、味を想像したり、味覚を働かせるしかできない。理想の自分にならない方が健康的で、おそらく、おいしそうに食べられてるぶん、いくぶんかは可愛げがあると思う。


 昨日のわたしは咄嗟に、「杏仁豆腐」という言葉が出た。それも、よくよく考えた言葉ではなくて、食べたくて食べたくて仕方がなかったものではなくて、本当に咄嗟に、ぽっと出た言葉だった。けれどそれがなんだか楽しくて、心地よくて、おいしかった。わたしは勝手に、よくわからないところに感動して、ふふふ、となりがちだ。彼がたわいもないたとえ話の中で、「たとえば、おいしい…」で少し間があって、わたしはこっそり「何屋さんかな、ケーキ屋さん?お寿司屋さん?いやいやきっと、パン屋さんだな」って予想を立てた。案の定彼が「パン屋とか」って言葉を聞いたとき、すごく幸せだった。彼の口からパンとかカステラとかライチとか、かわいい言葉が出てくる瞬間が好きで、記憶にとどめたくなる。笑ったときの、かなり外側にできるえくぼがかわいい。ひとつひとつが優しくて心配になる。たとえばわたしがこんなことを思っていることを悟られてしまったら、きっとあの人はまた何かしらほんの少しでも何かを考えてしまいそうで、心がたまらない。


 こういう風に、わたしが大事な友人に対して思う気持ちとおんなじものが混じりながら好きになってしまって、こんなだったら、同性同士なら、きっとずっと仲良くできるのに。これからどうなるんだろうって不安もあるけれど、それでも幸せなのはなんでだろうか。


雪の日のつぎのひ


 きのうは雪が降っていて、ひきこもっていたのだけど、悶々と家でInstagramTwitterをみてると、さむいのにみんな元気そうで落ち込んだ。もともと体力と気力が備わってないわたしは決まって、こういう年に数回しかないイベントではしゃぐことができず、1日ゴロゴロして、夜中近くなると急激に「なんて面白みのない人間なんだ…」とワナワナする。

 毎年大晦日からお正月にかけて、今年こそは初詣して初日の出を拝んで、雰囲気のいい新年の写真を撮ったりしてキラキラインスタ女子の幕開けをするぞ!と心に誓うのだけど、誘ってくる友人もいなければ誘う気力もないのでそのままになり、お家でゾゾタウンとにらめっこしながら撮り溜めたお笑い番組を見るくらいしかできない。もちろん今年も例に漏れずそれで、あいかわらずだったが、2日以降は初売りや初詣や初亀や、いつもはひとりでふらふらしてしまう場面で隣に人がいたのでずいぶん楽しかった気がする。

 そんなわたしは昨日から今日にかけて卒論を書き終え、自由の身になった。パソコン音痴なので文字を書き連ねることよりも体裁を整えるほうが苦痛で、最後の方はほぼゼミの神様たちに任せきりだったが、これで卒業ができる。すごくすごく喜ばしいことで、実際に喜びすぎて自分へのご褒美に気になっていた洋服をまたポチってしまったのだけど、もう文字を書く必要がなくなったかと思うと途端にかなしくなった。

 思えばこの4年間、駄作も少し自信作も含めて、ひたすらに文字を打ち続けてきた。主にわたしはエッセイと小説の中間点みたいな中途半端で女臭いものを書き続けていて、その都度自分の中に溜まったウズウズとした感情を出していた。だから基本的にはお世辞にも綺麗な文章ではなく、自己陶酔とエグみと醜さを足して3で割ったようなものだったのだけど、わたしにとってはその排出が心地よく、一種の精神安定剤だった。最初は大好きな作家さんや、大好きな人たちの文体を寄せ集めて、自由気ままに気まぐれに書きなぐっていたものも、いつしか書き続けるほどに「どんなテーマの文章を書かせてもフチ子はフチ子だね」言われるようになった。

 これから社会人になって、一般人として普通に平凡に生きいきたいし、働いたことによって得たお金でお気に入りの服を買ってその服を着てディズニーを練り歩くことや、関ジャニ∞のコンサートに行くこと、突然の創作欲任せに刺繍に没頭することで幸せを感じていきたい。これからもそんな感じでゆるっと真面目にオタク気味に生きていきたいと思っている。そう生きたいのだけど、そのなかに4年間で培った寄せ集めのわたしの文体で、普通の中にある幸せやイラつきやドキドキや興奮やかなしみを書き殴るスペースが少しでもあるといいな、と思った。その場所としてのこのブログが、いつまで続くのかはわからないけどね。

 あやちゃんは2月になったらわたしと、「思慮深い女の子らしさを感じられる映画」にわたしを誘ってくれるらしい。さやかは2月になったらわたしと、「女性性を刺激される少々エロティックな名作映画」を見るためにお家に呼んでくれるらしい。まゆきちゃんは2月以降わたしと、「ファッション化したい物語とキャラクター」シリーズを展開させてディズニーざんまいの世界に連れて行ってくれるらしい。きっとまみは2月以降もわたしと、「可愛いけどおいしくないor可愛くないけどうまい料理を巡る旅」に連れ出してくれると思ってる。それだけじゃなくていろいろと、今も、いろんな感情が大きくなったりしぼんだり、あいかわらず忙しい。

 写真や色味のセンスが皆無のわたしは、これくらいしか記録できる媒体がない。だからフチ子、ひとりスタジオはじめます。